第三章 アドニオス
Adonaios
 気がつくとコルコは深くて大きな穴の底に横たわっていた。
 すぐには立ち上がれそうにないほど、全身がひどい倦怠感に覆われていた。首をめぐらす範囲には砂しか見えなかった。意識の混濁がタールのように脳にへばりついている。まとまった思考をなんとかたぐりよせようとしたが、頭に去来するイメージは混沌としてとりとめもなく、なにひとつ意味のあるものが浮かんでこない。
 ――おれは、ついさっきまで「横たわっている自分」を見ていたのではないのか?
 ――いやそれよりも、たった今まで見ていたあの夢は何だったのだろう?
 砂が舞った。翼のはばたく音がかすかに聞こえ、だしぬけに獣のような足がコルコの眼の前に舞い降りてきた。
「眼を覚ましたか」
 あの、アドニオスと名乗った鳥の声が頭上で聞こえる。
「どうやら、おまえは今すぐは死なないらしい」
 アドニオスは膝を折って、コルコに顔を寄せてきた。あらためて鳥の顔を見てみると、思いがけないほど美しい顔だちをしている。
「我らは思いちがいをしていた。おまえが今すぐに死なないのなら、我らはここに居る必要はない。ひとまず立ち去ることにする。ただ、おまえも思いちがいをせぬよう、いくつか教えておこう。この星にはもう、おまえ以外に命ある者はいない。ここからどこへ向かっても砂の外何もない。建造物といえるものはあの塔と、おまえが最初に目覚めた部屋ぐらいしかない。その部屋も今ごろは砂の中に埋まっているだろう。口に出来るものは何もないし、水すらないのだから、しばらく生き延びることが出来るといっても、たかが知れている。それは覚悟しておくがいい」
 アドニオスはおだやかな顔でそう告げた。コルコは不思議と静かな気持でその言葉を受け入れた。はっきりと理解できたことがひとつだけある。おれは今すぐ死ぬわけではないが、そう長くも生きられない。このことが解っただけでも、つい先程までの不快極まる意識の混濁のなかに、とりすがることの出来る小船がひとつ生まれたわけだ。
「とにかく、死ぬまでほんのわずかだが、何かを考える時間はできたのだ。それはとりあえず、おまえにとっては良い知らせに違いない。何も理解できぬまま死ぬよりはな」そう言うとアドニオスはコルコの傍らに人形をそっと置いた。「わすれものだ。これはおまえにとってとても大切なものなのだろう?」
 鳥は立ち上がり、翼をゆっくりと拡げた。振り向こうとしてから、何かを唐突に思い出したように動作を止め、わずかに視線だけコルコの方に向けた。
「――何故世界がこんな風になってしまったのか、教えてやろうか。生きたい、という生命の持つ根源的な力の中には悪も善も両方入っている。悪を一掃するということは、生命が持つ根本を叩き潰すことになる。いいか、悪が世界を滅ぼすんじゃない、偽善が世界を破滅させるんだ」
 そう言って、口の端にわずかに笑みを浮かべた。微笑の意味をコルコは探ろうとしたが、その暇を与えぬうちに鳥は背を向け、雄々しく翼をはためかせたかと思うと、砂塵を巻き上げ、瞬く間に飛び去っていった。