現実には、脆弱な気密性の機体内部から酸素がどんどん外に流出していて、低酸素症でわたしは意識を失いかけていたのだ。あのまま、あの上空にとどまり続けていたら、まちがいなくわたしは命を落としていたことだろう。
今から思えば、誰かによって救われたのではなかろうか、とも思う。エンジンが自然停止し、機体がすこしずつ高度を下げ始めた。
命を失うことなく、わたしは地上に舞い降りた。自宅前にたどりついた時、わたしは飛行艇の中で気を失っていた。失神する直前、無意識のうちに自動航行装置を再起動させていた。
ダウンタウンにある、その陰りを帯びた路地に入り込んでゆくと、狭い道の両側に様々な店が雑然と軒を並べていた。ここまで入ってくるのは初めてだ。高高度飛行で激しく傷んだ機体を修理するために、表通りにある正規のメンテナンス・ショップでなく、ここまで来たのは理由がある。
テネブラーエの店は、路地のもっとも奥まった場所にあった。そこだけ、いつまでも乾くことのない油染みのように、真っ黒に湿っているように見えた。
前もって連絡はしてある。店の前まで来ると、わたしは飛行艇をそのままガレージに入れた。ガレージの中はひっそりとして、誰も出てこない。硬質な油の匂いが鼻を突く。
今日はこのまま機体を置いて出直してくるべきだろうか、と思案し始めた矢先、店主が姿を現した。まるでたったいま黄泉の国からやってきた死霊のように、ひっそりと。
鼠のように小さな皺だらけの顔の中に、強く光る眼を持っている。その眼が暫くわたしをじっと見つめていた。得体の知れない思いを含んでいるような眼だ。こんな眼つきの人間は表通りにはまず居ない。昔観たことのある20世紀製のモノクロ映画にこんな男が居たような気がする。
店主が何も言わずに、立ったままなので、わたしの方から要件を告げた。
「金がかかる」
男はそう一言だけ言った。
それは承知している。運行会社と保険会社が支払った金がふんだんにあった(持っていても仕方のない金だ)。これが相場だろう、と思う額の三倍の金額を言った。
「いくらかかるか分からない。あんたが今言った金は前払いで支払ってくれ。機体がすっかり仕上がったら差額を請求する。――わかっているだろうが、これは違法改造だ」
そう言われることも承知の上だった。言った額をその場で現金で支払った。現金のやりとりをしたのは久しぶりだ。店主は金を受け取ると、まるでわたしをそこらに転がっているネジと同価値しかないという眼つきで一瞥し、現れたときと同じようにひっそりと姿を消した。
店を出て、表通りに出るまで、路地に軒を並べている店先を、見るともなく見ながら歩いた。こんなに猥雑な雰囲気の街は滅多に来たことがない。
ある店の前まで来た時、わたしの足はぴたりと止まった。そこは古書店らしいが、大枠なショーウインドウの中には、今では見かけることがまず無くなった紙綴じ本のほかに、時代がかった雑貨や古道具が並べられている。ウインドウの背後には黒ずんだ虫食いだらけの看板が掲げられており、判別しがたい字体で「Juherdha<ジュヘルダ>」と彫り付けてあった。わたしが眼を奪われたものは、その中につつましやかに飾られていた、古風な人形だった。
いま、わたしの手元にある、この人形である。
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