第二章 ジュヘルダ
Juherdha

最後の持ち主 
 この人形の胎内に納められているさまざまな物語のかけらは、わたしが生涯かけて集めたものだ。これらは、あくまで“かけら”であって、一貫した物語として完結しているものは一編たりともない。が、むしろその方がいい、ということは、この人形を手にした人はすでに承知していることだろう。もしそのような人が存在していれば、のことだが。
 最後に納めるこのかけらだけは、物語としては唯一、完結しているものになろう。だが一番退屈なものであるはずだ。なぜならこの一編だけは、他ならぬわたし自身の物語だから。他のかけらは物語の断片であってもなお、これを味わう人を魅惑し、酔わせ、無上の喜びと純粋な幸福感、そして永遠を感じさせてくれるだろう。これらの断片ひとつひとつの価値はダイアモンドにも等しい。それに比べ、わたしの物語はいかにもみすぼらしく、木の葉の屑程度にしか見えないかもしれない。
 そうであっても、わたしの人生に起こったことは、わたしにとっては唯一無二のかけがえのないものだ。唯一無二の人生は一人ひとりにある。だから当然、一人ひとりにかけがえのない物語がひとつずつある筈なのだ。これは多くの人が忘れがちなことだが、ほんとうは決して忘れてはならないとても大切なことだ。
 血沸き肉踊る物語を期待する人には、わたしの物語はいかにもつまらないものであろう。しかし、地味で取るに足らないわたしの人生にも、いくらかの話すに足る出来事はある。
 わたしが三十八歳の春、わたしは家族を一時にして失った。
 ある休日、わたしは妻と十二歳になる娘と一緒に、市内のマーケットに買い物に行くため、中型の巡回飛行艇に乗っていた。自動航行していたその飛行艇は止まるべき交差点をそのまま直進し、大型の貨物艇に激突して墜落した。十二人の乗客のうち死亡したのは妻と娘だけだった。事故の大きさの割に、怪我の軽重こそあれ、生き残った他の乗客らが受けたダメージは奇跡的に小さいもので済んだ。わたしも左の鎖骨と上腕骨を折っただけだった。ただ墜落の衝撃で脳震盪を起こし、一日半気を失っていた。眼を醒ましたわたしを待ち受けていた悪い知らせが、どれだけわたしを打ちのめしたか、それを具体的にここに書くことはよそう。深い悲しみをどのように言葉にしていいか、わたしは今でも分からない。当時、もう眼を醒まさない妻と娘を前にして、どのように振舞えばいいのか、それすらわからなかった。その後途方にくれるほどの感情喪失状態に陥った。
 事故の原因はすぐ特定された。飛行艇の機体そのものには何の問題もなく、自動航行プログラムに些細な欠陥が見つかったのだ。プログラムは運行会社の下請け企業社員の二十代のエンジニアが作ったものだ。そのエンジニアは刑事裁判にかけられ(運行会社と下請け企業の経営者は不起訴になった)、有罪判決を受けたものの執行猶予がついた。
 何故、わたしの妻と娘は死んだのだろう?医者は答えた。脳挫傷と出血多量によるショック死。なるほどそれは「事実」に違いない。何故?警察と裁判所は事故原因を特定した。その原因を作った張本人をフェアに(そこにわたしの主観は入っていないが)裁いた。ああそれも「事実」に違いない。
 わたしはもっと根源的なことを知りたかった。そもそもこの社会には、何故こんなにも自動運行するメカニズムであふれているのだろう?それが根源的な過ちではないのか?だが、心臓のペースメーカーから目覚まし時計、赤児の玩具や犬の首輪にもコンピュータが組み込まれ、それらすべてがネットワークで繋がれている時代だ。人間の移動する手段は前世紀の昔からすべて完全オートマチック化されている。人間がマニュアルで乗り物を操縦していた頃に比べれば格段に事故が減り、よって交通死亡事故がほとんど無くなったのも事実だった。
 メディアは、ひと月ほどはわたしの気持ちに寄りそう「ふり」をし、わたしの怒りや悲しみを代弁しているつもりになり、運行会社や下請け企業を糾弾して、そして現代の社会システムのに警笛を鳴らすという「いつもの義務」を表向き果たした。だが今さらこの現代社会を旧態依然に戻そうなどとは誰も本気では考えていない。圧倒的多数の人々はこの社会システムの恩恵を受けて平和に幸福に暮らしているのだ。
 けれど、あくまでそれは「圧倒的多数」であって「すべての人々」じゃない。ここに、その「圧倒的多数」に入れなかった「ごく少数」のわたしが居る。